未来予測
未来予測
matz さん1の日記に、PC Watch の山田祥平さんの連載「Re:config.sys」からの下記の引用がありました。
今から500年前の中世ヨーロッパにでかけていって、グーテンベルグが発明した印刷術を評価することを依頼されたとしよう。たぶん、われわれは自信を持って、印刷術は普及しないと断定するにちがいない。その理由は次のようになる。第一に、印刷はきわめて高価であるから写学生の筆写に価格面で太刀打ちできない。第二に、ほとんどの人が読み書きを知らないのだから、複製を大量に必要とする市場がない。第三に、一五世紀当時は、本当に重要な問題は宗教に限られており、個人のプライベートな内面の思想の問題であったため、これは印刷物によって伝達できる内容ではない。それ故に、印刷術は絶対に普及しない。普通の観察力と判断力を持つ人ならば、かならずやそう断言したであろう。
鶴岡雄二翻訳/浜野保樹監修「アラン・ケイ」(アスキー、1992年)より引用
ちょっと前には「すぐに未来予測ができるようになる62の法則」なんて本について友人と話したり、つい最近元同僚の先輩から、ソニー CEO の出井さんが以前に書いた本について「出井さんですら5年後の未来も予測できていない」なんて話をされるたび、僕はどうもこの「未来予測」という概念に引っかかってしまうのです。
「未来予測」という言葉に僕は、どうも古典的自然科学の持つ「未来は演繹出来る」というような世界観を感じてしまうんですよね。冒頭に上げた matz さんの日記でも「半端な知識は未来を予測するのに役に立たない」なんて書かれていて、あたかも十分な知識を与えられれば未来は予測できる、と考えてられているかのようです。
僕は「一つの方程式で世界の全てを記述できる」なんてもう考えられないし、必要な要素を漏らさず分析すれば未来を正確に予測できる、なんてとても考えられません。「世界」そのもの、と比較すれば極めて限定的でパラメータも少ない天気予報ですらまともに出来ないんですよ。未来なんて予測できるはずがない。
でも昔から、「物事を先の先まで見通している人だ」とか「彼の言うことに間違いはない」というようなことはよく言われているわけですけれども、僕はこれらの言葉が示す概念というものが、いわゆる「未来予測」とはまったく違うものだと思うんです。
先を見通せるように見える人というのは、膨大な知識を元に分析的に未来を予測しているのではなく、もっと総合的に行く末を感じているのではないかと思うんですよね。matz さんの日記でも触れられているアラン・ケイの有名な、
The best way to predict the future is to invent it.
(未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことだ)
という言葉も、「未来を予測する」という方向ではなく、「モノを発明する (ことによって世界を変える)」方向にモチベーションを振り向けよう、というようなメッセージを感じます。数学的な超時間的 (無時間的) な世界認識を捨て、もっと漸進的に身体の周りの世界に働きかけ未来を生みだしていこう、という感覚。先を見通せるように見える人は、別に本当に未来が見えているわけではなく、その時点での世界を総合的に感覚し、自分自身の感性と正直に向き合って、「正しい」と思える方向がどちらかを認識出来る人のことではないでしょうか。