birdアナロジー

アナロジー

今読んでいる本 (「メタマジック・ゲーム」。また再読してます) に、アナロジー1の大切さについて書かれた章がありました。曰く、「人間が何を見てもアナロジーを思ってしまうのは、それが進化戦略上重要な要素だったからに他ならない」。そこからの発展で、「正しいアナロジー」を想起出来るかどうか、ということは生きていく上で非常に重要な要素である、と言っています。ここで彼の言う「正しさ」というのがちょっと曖昧なんですが、一言で言えば「人間らしさ」という感じかしら (何のこっちゃ、ですね)。人間らしい柔らかさ、人間らしい常識感。「人間」という種が語りかけてくる感覚。突拍子もなく非常にユニークなアナロジーを想起してしまう人もいるけれど、そういう人は実生活では非常に苦労するに違いない、といったことが述べられています。
この話を読んでいてふと、よく Internet 上で取り上げられるメタ議論のうち、「例え話は良くない」というような話を思い出しました。「例え話止めろ」と主張する人の論旨は、例え話はどこまで行っても例え話で、元々の話とは根本的に違う。例え話という形で論をゆがめてしまうことで、元の議論の決定的な要素が抜け落ちてしまったりする、と言う点を危惧してのことだと僕は理解していますが、ホフスタッターの議論によれば、人間は類推することなしに物事を理解出来ないみたい。どんな話もそのアナロジーによって思考のポジションが定まらないと、理解したという気分になれないらしい。そうだとすると、アナロジー自体を止めろ、と主張することはちょっとナンセンスで、むしろ、「そのアナロジーは良いアナロジーではない」と主張すべきなんでしょうね。
ある物事に関する理解を他者と共有したいと欲した時に、そのアナロジー、さらにそのアナロジーと、どんどんメタレベルに上っていくことはよくありますけど、こういう時に共感を呼びやすいアナロジーがつまり「正しいアナロジー」なんだろうな。

コメント

うさ (Fri, 27 May 2005 15:48:47)
「たとえ話やめろ」って人をあんま見たことないのだが、あれかな、たとえにされるとわからんとかそういうことかな。それは単にたとえが悪いか、受け手が頭悪いかのどっちかだろうな。
ただ、掲示板とか見て回ると、たとえる方が頭が悪くてうまくたとえきれてないことが多いような、気も、する。しかしでぢつね氏はいっぱいご本を読んでいてすごいね。尊敬に値する、かもよ。
SAK (Fri, 27 May 2005 23:12:21)
微妙に誤解しやすい例え話で、議論を煙に巻く輩が多いからだろう>例え話禁止。
ちなみに、私の得意技が、例え話でのミスリードなのはご存じの通り。
Digitune (Tue, 31 May 2005 00:31:08)
たとえ話、ってのは、その人の物事のとらえ方が如実に表れるわけだから、他人が見て「うまくたとえ切れてない」と思うのはある意味当たり前だと思うわけですよ>うさどん
にもかかわらず、より多くの人に「なるほど」と思わせるアナロジーを自然に発想出来ること、というのが価値あることらしい。

ミスリードが得意技、とは、相変わらず性格悪いな〜(笑>SAK
深みがあってバランスが取れてるアナロジーを使いこなせる人にすれば、そういう悪意を伴うアナロジーってきっとすぐに分かるだろうから、あんまり関係ないんじゃないかなぁ。
僕が見ている範囲では、どうもあんまり質の良くないアナロジーを展開しようとしている人に対して「そんなんじゃダメでしょ」的に「止めろ」と言っていることが多いような (「質の良くないアナロジー」に「微妙に誤解しやすいよう細工されたアナロジー」は含まれるでしょ、という見方ならば賛成)。そう思うのならより良いアナロジーを教えてあげれば良いのにね。

  1. 日本語で言うと「類推」?例え話とか。 ↩︎