「アンナ・カレーニナ」
「アンナ・カレーニナ」
保坂さんつながりで。上中下の三分冊で大変読みごたえがありました。面白かった。
ほんとならタイトルにもなっているくらいだし、主人公アンナ&ヴロンスキーの悲劇をメインに読む本な気がしますが、僕はもっぱらリョーヴィン&キチイ1のカップルに惹かれました。特にリョーヴィン。ほとんどバカがつくほど素直すぎる彼の苦悩やその結論にとても共感。出産のシーンでは思わず電車の中で笑い出したりしつつも、初めて自分の子供を見たときの気持ちは僕もそうだったような気がしました。
リョーヴィンがたどり着いた結論とは、例えば
つまり、われわれが理解したり、われわれをひきつけたり、われわれが望んだりすることのために生きるのじゃなく、なにかしら不可解なもののために、だれひとり理解することも、定義することもできない、神のために生きなくてはいけないのだ。
アンナ・カレーニナより引用
とか、また理性による探求を、子供が自分のしたことを大人に叱られた時に感じる反感のようなものではないか、というようなものなんですが、これがたまたま最近僕の考えていたことと微妙にシンクロしていて2、とても興味深かった。
僕が最近考えていたこととはこんなこと。「ブラッド・ミュージック」を読んで、「幼年期の終わり」を思いだし、「未来の記憶」という概念について考えていました。この概念は普通に考えると非常に突拍子もないものながら、さまざまな物語にしばしば現れるモチーフです。でも、どうしてでしょうか?
例えば「デジャヴュ」からの発想とか、「時間軸」を単純に未来方向へ演繹しただけ、という理由も大きいのでしょうが、そのときふと、「生命自身は未来の記憶を持つことが実は本当に可能なのではないか」という思いが湧いてきました。
人間理性は未だカオス系やカオス辺縁系の未来を予測することが出来ないでいますが、現実を顧みると生命自身はある程度それらを予測出来ている、と言えないでしょうか。そうでなければ、カオティックな世界の中で自らの分身を残すような確たる仕事を成し遂げることは出来なかったでしょう。数ヵ月、時には数年に一度だけ降る雨の時にのみ繁殖をするような生物や、季節や環境によりあざやかに変態する昆虫達。彼らはカオティックな世界ととてもうまく折り合いをつけているように見えます。
そういう意味で、人間も本来生命ですから、カオスを御する能力を持っているはず。ただしそれは意識レベルのものではないに違いない。なぜなら人の理性は、そういった面に関しては甚だ非力過ぎるから。自分の身体と、身体を取り巻く環境と、そういったものを無意識のレベルで感覚した時に得られる衝動。そういった人間本来の持つ生命としてのカオスを御するための力こそ、これまで「絶対的な善」として、「神」として認識されてきた衝動だったりするのではないでしょうか。リョーヴィンの言う、「理解することも定義することも出来ない神のために生きねばならない」とは、すなわちそういうことなのではなかろうか…と思ったりしたわけなのでした。
ところで、今回初めて「トルストイ主義」というものを知ったのですが、そこからガンジーさんにつながっていたり、養老先生の共同体指向的な発言の根っこのようなものを見たような気がしたりして、なんだか面白かった。ことさらそういうテーマの本を選んで読んでいるつもりはないんですが、いろいろな人のいろいろな考えが自然とつながってくるものなのですね。